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赤城山リミナリティ

『表現の生態系』 アーツ前橋 2019.10.12 - 2020.1.13  撮影:木暮伸也

群馬県にある赤城山は昔から山岳信仰の対象であり、多くの伝説が残されてきた。また豊かな自然の恵みをもたらすだけでなく、任侠として知られる国定忠治や暴走族などのアウトローたちが跋扈する土地でもあった。
 6ヶ月間にわたる人類学者・石倉敏明氏との取材を元に、日常と非日常が曖昧で境界的なアジールとして赤城山を描き出した作品である。
 
美術手帖 檜山真有評「表現の生態系 世界との関係をつくりかえる」展

赤城山リミナリティ

 
かつて、深夜に鳴り響いていた暴走族たちの狂宴。その奇矯な走行や音響は、何に向けられていたのだろうか。 ただ一つ明らかなことは、彼らが山と平地の間を駆け抜けていたこと。クラクションとサイレンの音は時空を超えて激しく咆哮し、赤城山麓にこだましていた。いくつかの隆起が合わさって山襞を成す赤城山の麓には、その恩恵を受けてきた土地の歴史が受け継がれている。麓の人々は、赤城山の豊かな水と乾いた風を受け取るだけではなく、人生の岐路においてこの山に登ってきた。

上州の侠客・国定忠治もまた、幕府の捕縛から逃れるために赤城山に身を隠した。「アジール(避難所)」としての山の岩場には、修験道の修行者たちの、生々しい痕跡も残されている。行者たちは山中の自然の領域に退却し、いわば「山に引きこもる」ことで「もう一つの世界」に身を晒そうとした。それはさまざまな動植物種や菌類の生命活動に満たされ、死者や神仏の霊とも通いあう濃密な世界だ。かつて一定の年齢に達した麓の若者たちも、赤城山に登り異界の力と接触した。子供としての一時代から身を引き剥がし、大人として生まれ直すための「通過儀礼」に参加するのだ。

バイクで赤城山を駆け抜けた若者たちの中には、社会や集団とのせめぎ合いの中で、命を落とした者もいたという。一見何者にもなびかない強さを感じる「ヤンキー」たちも、言い知れぬ思いを抱きながら、空っ風を正面に浴びて暴走する夜もあったのではないか。道路に残るタイヤの摩擦跡を見ていると、時層として堆積する豊かな体験と共に、生と死をめぐるヒリヒリした感覚が伝わってくる。

「リミナリティ(liminality)」とは人類学者ヴィクター・ターナーが提起した概念であり、通過儀礼の渦中にある新参者が、それまでの社会常識から宙吊りになり、曖昧な状況に入る境界性をあらわす。新参者は社会的な地位から解き放たれて、拘束されない状態になるというのだ。赤城山に踏み込んだ人々は、そこに引きこもることで「宙吊り」になる。アウトローたちの生命もそこに潜んでいる。私たちが立っているのは、リミナル(境界的)な大地だ。そこには異なる時層に跋扈した人々、人間ならざる者たち、死者と生者の営みの全てが刻まれ、目覚めの時を待つ。 
(尾花賢一+石倉敏明)